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電気の世紀

─トーマス・エジソン

Seibun Satow

 Feb, 20. 2001

一九〇一年一月二十三日水曜日

The new century has opened rather inauspiciously”.

夏目漱石『日記』

 

  二〇〇〇年十月四日に肺ガンのため、六十六歳で亡くなった林ひな子は二十世紀を最も表象した一人である。彼女は草創期のTV界に登場した「CMガール」の草分けである。当時、宣伝対象の賞品の印象がかすんでしまうという理由から、TVCMに俳優は敬遠される。「三種の神器」が衝撃を与え、人々は商品名だけが連呼される広告ではなく、商品に関する具体的な説明を求めている。電化製品は家庭では未知のものだったからだ。『月光仮面』や『怪人二十面相』を代表に、細身で、ショートヘアーの彼女の担当した多くの人気番組は単独企業の提供だったため、番組や特定スポンサーのイメージになる。アナウンサーさえ匿名だった頃に、彼女は自分の名前を名乗っている。生コマーシャルの時代だったので、ハプニングもよく起きる。彼女は、そんな時でも、とっさに機転を働かせ、ユーモアでのりきっている。「媚を売らず、親切さ、身近さ、清潔さ」が彼女のモットーだった。林ひな子が紹介した洗濯機や冷蔵庫、掃除機、クーラー、テレビは電気の魔法である。彼女はまさにElectric Magic Womanである。

 

Citizens of science

Closed eyes

Just kill time

Hung up on phones.

Stand alone in windows

Of empty room

They never wave

Never give you the time of day.

 

They think in shifts

Dream with eye contact

Never notice blind dates

Drinking hand stuff

Listening to the radio for blast.

And without a fuse walk passed.

 

Citizens of science

Close the eyes

And breathe and breathe

Hang up on phones

Stand alone in windows

Of empty room

Stare from vacant bars

They never wave

Never give you the time of day.

 

Citizens of science

They think in shifts

Dream with eye contact

Never notice blind dates

Kill time in faceless stations

Drinking hand stuff

Listening to the radio for blast.

 

Citizens of science are silent.

Citizens of science can smile.

Citizens of science are silent.

They know what is good for them.

 

Citizens of science

Are silent as walls for days.

Then left on shelves breathe away

Citizens of science are silent.

Citizens of science still smile.

They know what is good for them.

(Yellow Magic Orchestra “Citizens Of Science”)

 

  アメリカの世紀と呼ばれる二十世紀は「電気の世紀」である。一九六七年、パリで、万国博覧会が開催される。「近代生活の諸芸術と技術の博覧会」をテーマに、人類の進歩と近代生活を代表するものとして、「光」がとりあげられている。ラウル・デュフィは、その万博に、縦10m、横60mの大作『電気の精』を展示する。また、フランス革命二〇〇周年を記念するイベントにおいて、ナム・ジュン・パイクが、『電気の精』の前で、ビデオ・インスタレーションを行ったが、電気称賛のアートとビデオという動画の映像メディア・アートが光を媒体に共振している光景を呈示している。"Guiding light, guiding light, guiding thru these nights”(Television ”Guiding Light”).「光(light)」は「啓蒙(enlightenment)」につながるが、二十世紀において、その「光」とは「電気」である。これはトーマス・エジソンの認識である。一九三一年、エジソンの葬儀の夜、マンハッタンでは電灯が一斉に消されている。それは市民からのエジソンの死への弔意である。マンハッタンに電力を供給しているのもエジソンが始めた会社に由来を持っている。「町中の人が明かりを待っているようだった」(トーマス・エジソン『回想』)Discontent is the first step in progress.

 トーマス・エジソンは現代の電化社会を可能にさせた有力な人物の一人である。エジソンは、一八四七年二月十一日、オハイオ州マイランに生まれる。小学校に入ったものの、どうにも学校という環境になじめず、教師との折り合いも悪かった。三ヵ月たったある日、女教師にクラスメートの前で「頭が空っぽね(He is addled)」と冷笑され、教室からそのまま飛び出し、家に帰ってしまう。泣きじゃくるわが子の姿を見て、母親は「これから私がこの子を教えます」と宣言する。息子を「低能」と信じていた父親は、それを聞くと、その分だけ学費が浮くと喜んで同意している。以来、少年は二度と学校に行くことはない。“If I was as wise as that, I should have a headache all day long, I know I should!” (Lewis Carroll “Sylvie and Bruno”).母親は、かなりゆっくりと時間をかけて、the 3R’sを教えている。All things are difficult before they are easy.実際、十九歳になっても、稚拙で句読点もおぼつかない手紙しか書けなかった。「お母さん──働いてから二三週間になりますとても大きくなりもう子供のようじゃありません──みなさんお元気ですかメンフィスの町から本の入った小包を受けとりましたか言ったでしょう送るって──外国語の本です。さようならアルより」。

 アルは、そのうち、読書の楽しみに目覚めるようになる。エドワード・ギボンの『ローマ帝国衰亡史』やデヴィッド・ヒュームの『英国史』、ウィリアム・シェークスピア、チャールズ・ディケンズなどの古典の名作を母親と一緒に読み耽ったが、中でも、『自然科学の学校』に心奪われる。それがきっかけとなり、物理学や化学の新刊が出るたびに、目を通すようになっている。近所の子供たちと遊ぶことはなく、自宅の地下につくった研究室にこもって、実験を繰り返すのが好きである。十二歳の時から、列車の売り子として働き始め、通信技師となった十六歳の頃から、発明に没頭するようになっている。一八六八年、「電気式投票記録機」により初めて特許をとる。最初の発明品も電気だ。記録機は不評だったが、次々と電気にかかわる発明品を考案している。一日に三、四時間しか眠らないで、研究に没頭し続けている。それは生涯に渡って、変わらない。二十三歳で、発明家として独立し、一八七七年に、蓄音機、その二年後、白熱電灯を発明し、一躍全米のみならず、世界中に「エジソン」の名が知られるようになる。エジソンは始まりつつあった電気の時代の寵児であると同時に、開拓者でもある。

 エジソンの電気に対する偏愛は『フランケンシュタイン』の映画化に端的に見られる。一九一〇年、エジソンは、十二分の映画『フランケンシュタイン』をつくったが、フランケンシュタインが化学薬品によって生まれたことにしている。ちなみに、一九二〇年、カレル・チャペックが『RUR』でロボットを登場させた際にも、それを機械仕掛けではなく、「原形質(プロトプラズム)」からできた合成物として描いている。

 一八一六年、十八歳のMary Shelleyの夢から生まれた『フランケンシュタイン』は、マッド・サイエンティストのフラケンシュタイン博士が生命をつくるという話である。彼女はこれを匿名で発表している。多くの意味で十九世紀的であるけれども、現代を感じさせる。

 メアリーの母ウルストン・クラフトは女性の権利運動の活動家、父ゴドウィンは改革的思想家だったが、メアリーと詩人PB・シェリーとの結婚には反対している。幼児死亡率が高いこともあって、シェリーとの間に生まれた子供は二週間で亡くなり、メアリーは悲嘆に暮れる。

 当時、人々は産業革命によって科学に関心を持ち始めている。興味の中心は、最初、蒸気機関だったが、電気にも広がっていく。一七八〇年、ルイジ・ガルヴァーニは、死んだ蛙の足に電気を流すと、筋肉が痙攣を起こすのを発見し、それを「動物電気」と命名する。世間では、これを一つの根拠に、電気は死体を生き返らせる力があるのではないかとも考えられている。『フランケンシュタイン』は、こうした個人的・社会的背景の下、誕生する。

 筋は次の通りである。十八世紀の北極点を目指す探検家ロバート・ウォルドンが一人の男を救助する。彼は名前をヴィクトル・フランケンシュタインと明かす。この男は錬金術に関心があったが、一七五二年、ベンジャミン・フランクリンの雷の実験に影響を受け、電気による生命体の創造を試みる。ところが、土くれに命を与えるというプロメテウス的企ては、ダンテにも想像できない怪物をつくりあげてしまう。彼はこの怪物を拒絶する。親が子を拒み、置き去りにしたというわけだ。怪物は森に住み、人間を観察して、言葉を学習していったが、次第に、自分の存在を呪うようになる。怪物は、「フランケンシュタイン」の名前を博士の弟から聞いた瞬間、恨みを晴らすことを決意する。荒れ狂いながらも、怪物は博士に妻を望み、南米に渡って、植物を食べて暮らすと約束を結ぶ。しかし、博士は、途中で、女を殺してしまう。怪物は、報復として、彼の家族や友人を殺し、博士を北極におびき出す。博士は怪物を受け入れながらも、消耗し、怪物も霧の中に消えていく。両者はすべてを失い、最後には、二人とも絶命する。一九三一年、ボリス・カーロフ主演の『フランケンシュタイン』が封切られ、現在までのフランケンシュタインのイメージが形成される。ラジオ・ドラマや映画だけでなく、いささかソフトになりながらも、テレビにも、漫画にも、格好の題材となっている。日本では、スワローズでピッチャーにもなり、『旧約聖書』の巨人ゴリアテに由来するジャイアンツ相手にノーヒット・ノーランまで記録している。また、メル・ブルックスはコメディー映画として『フランケンシュタイン』を制作し、新たな展開も見せている。電気はこんな怪物を生み出しはしないというエジソンの思いとは別に、『フランケンシュタイン』の改変はこのようにバイオエレクトロニクスの到来を予感させる作品である。

 電気現象は古代から各地で確認されていたが、十七世紀に入って、ヨーロッパで、電気が理論的に体系付けられ始める。十六世紀の終わり、イギリスの医学者ウィリアム・ギルバートは、正の電気と負の電気が引き合う摩擦電気を実験的に証明し、一六〇〇年、この摩擦電気を『磁石について(De Magnete)』において、”electrica”と命名する。これは琥珀を意味するギリシア語”ηλεκτρον”に由来している。古代ギリシアのタレースが琥珀の摩擦電気に着目したという伝説がある。一六四六年、同じくイギリスのトーマス・ブラウンが、『流行する見掛けの導水管(Pseudodoxia Epidemica)』の中で、”electricity(軽い物体を吸引する力)”という言葉を使い、それが現在まで続いて使われている。ちなみに、東洋で用いられている「電気」の「電」は雷や稲妻、もしくは竜に由来する。東洋人は電気を雷の激しさから感じていたのに対して、ベンジャミン・フランクリンは、雷鳴轟く中、凧をあげるという違いがある。ただ、フランクリンが実験した翌年の一七五三年、同様の実験を試みたロシアのG・リヒマンは感電死しているので、フランクリンは運がよかったと言うほかない。一七四六年、オランダのライデン大学の教授ピーター・ヴァン・マッシェンブレーケは「ライデン瓶」と呼ばれる蓄電器を発明する。一八三六年、帆足萬理はオランダの自然科学書によって『窮理通』という八巻の編纂したが、その際、マッシェンブレーケの物理に関する書物を参考にしている。さらに、イギリスのヘンリー・キャンベンディッシュが残した電気学に関する遺稿をクラーク・マックスウェルは整理し、一八七九年、『ヘンリー・キャンベンディッシュの電気学』を公表する。貴族の家に生まれたキャンベンディッシュはほとんど発表もしないで、研究に没頭している。変人としても有名だった彼は試験嫌いで、ケンブリッジを退学し、世間ともろくに交流しなかった。誰よりも早く、クーロンの法則やオームの法則、水素も発見しているにもかかわらず、それを公表していない。キャンベンディッシュにとって研究は趣味にすぎない。マックスウェル以降、電気は物理学において主流の分野になっていく。

 こういう経緯を経て到来した電気の時代、科学技術に関するビジネスにおいて成功している手法は、意識していようとしまいと、多くの点で、電気を愛してやまないエジソンに起源を持っている。第一に、エジソン以後、産業界では企業の中に研究所をつくり、企業のために科学的研究を方向づけ、さらに研究を個人から集団へと移行させている。マックスウェル分布からギッブス分布へというわけだ。Walkmanを開発した企業名はわかっても、開発者の名前を知るものは少ない。新たな製品の研究開発は、企業内では、プロジェクト・チームで行うものだからだ。研究者グループは集団的匿名に徹しなければならない。エジソンは、ニュージャージー州のメンロパークに、世界初の工業研究実験室である工場を建てる。ちなみに、工場を建てる時に使われるコンクリート工法も建築の分野におけるエジソンの発明の一つである。この工場の建設はたった一人で小さな実験室に閉じこもる発明家の時代は終わり、複数の専門家がそれぞれの得意領域に力を発揮して、大きな発明に向かう組織の時代が始まったことを告げている。ベルの電話の改良や蓄音機、電灯の発明には、別の助手が担当する。エジソンは、壮大なElectric Magic Orchestraの指揮者として、振舞っている。

 エジソンが発明家として成功したものの、経営者として必ずしも成功しなかったことは、皮肉ながら、二十世紀がまさに電気の世紀だと物語っている。熱力学や機械工学の世界では、高等教育を受けていない発明家たちが自らの才覚でのし上がっていくことが可能だったが、電気や化学ではそうはいかない。エジソンは白熱電球を発明し、発電所も建設している。ところが、家庭や事務所、工場などに送電するとなると、電力消費が刻一刻不安定に変化するため、それを見越し、緻密に計算をして、さまざまな整備を尾行わなければならない。加えて、フィラメントの電気抵抗もそれに合わせて、変更する必要に迫られる。エジソンにはそんな能力はない。電気にかかわる事業では、電磁気学や数学に関する体系的な知識が不可欠である。高等教育履修者がそこでは求められると同時に、彼らの有力な就職先として企業の研究所が登場する。彼らはもはや発明家とが呼ばれない。「技術者」である。長らく分離していた科学と技術が二十世紀になってこのように融合される。エジソンの成功と失敗にはこういう功績もある。

 今の商品開発において、個人の能力よりも、チーム・ワークが重要だということは、IC開発が典型的に示している。IC開発は、一九五六年にイギリスのWA・ダンマーがトランジスターから発展した集積回路の開発できると予測したのが最初だとされている。しかし、特許となると、アメリカのジャック・キルビーとロバート・ノイスがほぼ同時期に出願し、その優先権を争ったものの、結局、ノイスにあるという判決が下される。ノイスは、その年、ウィリアム・ショックレーが設立したショックレー・トランジスター社の研究所に加わっていた。ショックレーはトランジスターの発明により一九五五年のノーベル物理学賞に輝いている。ところが、ショックレーの狭量さと傲慢さに嫌気がさして、ノイスを含め研究員が八人も辞めてしまう。”Eight Men Out”(Eliott Asinof). ショックレーは彼らを「八人の裏切り者」と呼んで罵ったが、彼自身は、七〇年代、黒人が遺伝的に劣等であると主張し、激しい非難にさらされている。彼らは、一九五七年、フェアチャイルド・セミコンダクター社を設立、今日のIC技術の根幹となるプレーナー・トランジスターを開発する。だが、このノイス以外の七人の名前は、よほどこの事情に詳しい本でない限り、載っていない。その後、ノイスはゴードン・ムーアやアンドリュー・S・グローブらと共に、一九六八年、Intel Corporationを創設する。Intel社は、現在、CPUのシェアでは世界最大を誇ると同時に、WINTEL TWINSの一方であるMicrosoft社と並んで、最も人使いの荒い企業として知られている。このように二十世紀の科学技術の歴史は集団的匿名によって形成されている。“We cannot re-write the whole of history for the purpose of gratifying our moral sense of what should be” (Oscar Wilde “Pen, Pencil and Poison”).

 さらに、IC自体がそうした認識を体現している。ネットワーク社会においては、その製品がすぐれているからと言って、必ずしも普及するとは限らない。技術的によいことと多くの人々が使うこととは、言語と同様、違う。ネットワークでは、ディファクトスタンダードこそが重要である。NECの技術開発のスタッフはマイクロプロセッサ・インテル8080の回路に不備を見つけ、改良したが、すでに普及しているタイプとの互換性がなくては売れないという営業サイドの注文により、それをもとに戻している。今やわれわれは「社会の歯車」という『モダン・タイムス』以来の比喩に代えて、ネットワークに組みこまれてしまった「社会のIC」という比喩を用いなければならない。

 言うまでもなく、開発者に対して、所属していた企業以上に、特許権や著作権が認められるべきである。世の中に名前が知られることと経済的報酬は別である。製品によって企業が得た経済的利益は開発者に特許権や著作権を認め、報酬として十分に与えなければならない。「コンピューターで、フォートランってあるでしょう。いちばんよく使われるプログラム言語のもと。あれをつくった男、もともと金持ちで、しょうがないからIBMが小切手帳プレゼントして、好きに使えというた。たいして使い道もなくて、山小屋でひとりで暮らしているという。それでも、衛星放送を三つほど持って、世界じゅうと山小屋で交信している。早稲田にいる友だちが、そいつといっしょにめし食って、大金持ちのくせに、『このエビ、値段のわりにまずいな』ってふたりでしゃべったとかいうてたよ」(森毅『悩んでなんぼの青春よ』)

 次に、エジソンは企業経営においてメディアの役割を重視し、発明に関する資金を調達するために、メディアを利用している。発明王はメディアがことのほか好きである。若き日のジョージ・バーナード・ショーも、ロンドンで、エジソンの電話の宣伝を行っている。「私はエジソン氏のロンドンでの名声の基礎を築いてやった」。GB・ショーの所属していたフェビアン協会では、イデオロギーが異なる相手を論破し、説得する四つの方法──argue, debate, lecture and propagandize──を会員に教えていたが、エジソンは、少なくとも、その一つではショー以上である。「La palpitazione di centomila VOLTS(10万ボルトの鼓動)(坂本龍一=細川周平『未来派2009)を持つ「メンロパークの魔法使い」と呼ばれたエジソンの宣伝は、サーカスの謳い文句と同様、インチキくさいまでに派手である。「エジソンには明らかに、いくぶん俳優や興行師的なところがあった」(マシュウ・ジョゼフソン『エジソンの生涯』)。Courtesy costs nothing.メディアから身を隠すなど、二十世紀を生き、なおかつ成功しようと狙っているものには、エジソンにしてみれば、理解不能であり、もってのほかだ。メディアに対して露出狂であるくらいの公開性が望ましい。メディアを敵と見なしてはいけない。味方にすべきだ。エジソンのメディア利用法は、今から見ても、巧みであると同時に、危ないものである。魔法使いは吹聴するのがたまらなく好きで、みんなから注目されることは、エジソンにとって、何とも言いがたい快感である。エジソンは、今自分がやろうとしている発明を静かに胸の内に閉まっておくことができず、仕上がってもいない段階で、その発明の予告を発表してしまう。これはスポンサーへのラブコールであり、自分自身を励ますためでもあったが、同じ発明をしようとしている人々への牽制でもある。新聞記者に怪しげな内部情報をリークしたことも一度や二度ではない。「ジンジャー(Ginger)」は、明らかに、エジソン流の宣伝方法がとられている。「デカリサーチ社(http://www.dekaresearch.com/)」を経営するディーン・カーメンが発明したジンジャーは、「Ginger Japan(http://ginger.ore.to/)」のサイトで情報が手に入るものの、正体がまったく明らかにならないまま、一人歩きしている。もともとエジソンは新聞記者志望である。ハックルベリー・フィンの不適さを持った売り子の頃に、鉄道会社のニュースやダイヤ変更、ちょっとした政治記事を載せた新聞を一人で作製し、社内や駅の売店で販売している。経済的には成功しなかったが、エジソンがメディアの重要性を早くから認識していたことを知らせるエピソードである。

 なお、二〇〇一年十二月三日、ジンジャーが一台三千ドルで、一日の維持費がわずか五セント以下の電動スクーター、「ゼクウエー−」であると判明する。ゼクウエーにはアクセルもブレーキもついていない代わりに、自動姿勢制御装置が内蔵されており、操縦者の姿勢に反応して動くという製品である。

 もっとも、そのエジソンがメディア自体を変えることになる。それはグーテンベルク以来の革命である。マーシャル・マクルーハンやアルヴィン・トフラーといったアングロ・アメリカのフューチヤーリストの予言はエレクトロニクスに基づいている。マスメディアはすたれ、ビデオ・ターミナルの前の個人が自由に情報を選択するようになるとマクルーハンは予測する。これはネット社会そのものだ。グーテンベルクの印刷機は著作権や印税の制度を生み出したが、ネットでは、著作権や販売料金は期待できず、バナー広告など広告費が収入源となる。広告の重要性がより増している。エジソンはこうしたエレクトリック・ジャーナリズムの基礎を築いただけでなく、体現していたのである。

 メディアに対する関心とその変化への感受性はエジソンに言葉まで発明することを思いつかせる。「Hello」という言葉をつくったのもエジソンである。”Hello, I love you, Won’t you tell me your name. Hello, I love you. Let me join your game”(The Doors ”Hello, I Love You”).それ以前には、「Ahoy」など何種類の言葉が用いられ、統一した呼びかけ声はない。エジソンは、幼い頃にかかった猩紅熱のため、耳が若干不自由である。エジソンはデジタル・デバイスを許さない。ハイカットとローカットされるため、電話の周波数帯域が狭いので、肉声よりも、電話を通した声は聞きとりにくくなる。エジソンは、聴力の弱い人でも電話で呼びかけを聞きとれるように、「Hello」という電話の周波数特性にあまり影響されない言葉を創造している。「電話室では、どちらを見ても、たくさんに分けられた小室のドアが開いたり閉まったりしていて、そこの喧騒ぶりといったら、もう気がへんになるくらいだった」(フランツ・カフカ『アメリカ』)。今では、どんな地方に住みながらも、電話やファックス、インターネット、衛星放送によって世界から情報を得ることができるし、主要先進国では、携帯電話は一人一台の時代に突入している。電話が日本に伝えられたのは一八七七年、民間への普及が進められたのが一八九〇年である。東京─横浜間で、最初の電話交換開始当時の加入者は東京では一五五人、横浜では四十五人だった。電話に限らず、エジソンの発明は目と耳の拡大である。古代ペルシアのアケメネス朝において、ダリウス一世が各州を巡察・報告させるために、王直属の監察官を任命したが、彼らは「王の目・王の耳」と呼ばれている。エジソンは「大衆の目・大衆の耳」を提供する。レオポルド・ブルームも「大衆の目・大衆の耳」を雇いたいと思ったかどうかは定かではないとしても、ヘンリー・フラワーには必要だったろう。目や耳を使ったコミュニケーションも挨拶から始まる。われわれはあまりにもエジソンの世紀を生きている。

 先物取引的な売り込みは、エジソンに限らず、二十世紀の企業経営の分岐点になることが少なくない。Microsoft社はWindows95販売の時、さまざまな手を使い、狂乱状態を引き起こしたが、すべては一九八〇年に遡る。組織向けコンピューター業界では、”Gulliver”と呼ばれたIBMであるけれども、パソコン部門では遅れをとり、 スティーヴ・ジョブス率いるApple社を筆頭に急成長するパソコン市場に進出するために、MS社と接触する。IBMMS社に話を持ちかけたのはほんの偶然にすぎない。慈善団体ユナイテッド・ウェイの全米理事会の後で、ビルの母Mary Gatesが理事の一人だったIBM会長ジョン・オペルに話しかけたことがきっかけである。IBMとの交渉に、ポール・アレンとスティーヴ・バルマーと共に臨んだビル・ゲイツは、IBMの苦境を改善するためには優秀なOSが必要であり、MS社は「DOS (Disk Operating System)」と命名したOSを用意していると持ちかける。OS開発は極めて難しい。当時、社員わずか三十二人のマイクロソフト社はOSを開発していなかったし、その能力もない。これは完全にはったりである。交渉後,共同経営者のポール・アレンは急いで知り合いを通じて探し回り、シアトル・コンピューター・プロダクツ社のティム・パターソンから86-DOSもしくはQ-DOSと呼ばれるOSを五万ドルで買い取る。納期に間に合ったためしがないことで知られるMS社だが、この時ばかりは、さすがに守らなければならない。Q-DOSに手を加えて,MS-DOSとしてIBMに転売している。IBMは、とにかく早く発売することを急いだため、オープン・プラットフォームのパソコンを製造すると決定する。一九八一年になると、一〇〇社あまりの企業──松下やSONYNEC──が続々とMS-DOSのライセンスを取得し、IBM互換機の生産を始める。MS-DOSがコンピューター業界で標準化することになり、MS社に莫大な利益をもたらす。こうした手口はMS社に限ったことではないが、IT業界の中でも、MS社が最も得意としているのは確かである。XEROXは、一九七〇年代に、マウスの使用やGUI環境、ネットワーク機能を備えたパソコンAltoを開発したものの、経営陣は商品化を認めていない。ある幹部は、会議中、Altoの開発者たちに「『ネズミ』なんぞをXEROXに売れというのかね」と問いただしている。Apple社はこの結果に激怒・失望した研究員を迎え、一九八四年、Macintoshを発売する。MS社も、一九八六年、Macintosh OSと非常によく似た仕様のWindows1.0を開発し、一九九三年に発表したWindows3.1によって、市場を席巻することになる。「XEROXのパロアルト研究所(PARC)は、今日広く使われているパーソナル・コンピューティングに関する基礎的なアプローチの礎を築いた。しかし、その研究に費やされた多額の資金と努力にもかかわらず、XEROXはそこから利益を得ることができなかった。これはビジネスにとっていい教訓だ。適正な人材を集め、正しい方法で仕事をさせることができるならば、これほどいい投資の対象はない」(ビル・ゲイツ)IT業界では、合法的な他社の製品の盗みが重要な手法となっている。WindowsMacInternet ExploreNetscape Navigatorの盗みである。それを非難されても、ゲイツはお気に入りのMy Wayの一節を歌うだけだろう。”I did it my way”.

 エジソンにしても、XEROXの経営陣同様、何度か見通しを誤っている。一〇九七種類の発明および改良に成功したエジソンの発想すべてが支配的になったわけではない。エジソンが直流を主張したのに対して、ニコラ・テスラーは交流の安全性を提唱し、今では電力会社が供給するタイプのほとんどは交流である。直流は、電車のモーターのように、立ち上がりの際に大きな力、あるいは、オーディオ機器のように、一方向に安定した電流を必要とする電源に適している。けれども、電流の方向や電圧の大きさを自由に変えられるため、発電・送電を考えれば、交流が選ばれるのは自然の成り行きである。”Yes, I’m back in black”(AC/DC ”Back In Black”).また、リュミエール兄弟が発明したスクリーンに映すシネマトグラフではなく、小さな機械の中に映し出される映像をのぞきこんで見るキネマトグラフに将来性を見ている。シネマトグラフには敗れたものの、エジソンが採用した35mmフィルムは映画の標準になっている。他にも、エジソン自身は死刑制度に反対していたものの、現に制度がある限り、それを合理的・人道的に行うのが現実的であるという当局からの説得に応じて、電気椅子を製作している。ギロチンは当時の最先端の科学的認識である重力によって執行される合理的・人道的な装置だったが、電気こそこの時代にはふさわしいというわけだ。ただし、直流を推進していた発明王は交流を用いるという条件をつけている。処刑の道具に使われる電流など人々は敬遠するに違いないと彼は考える。エジソンの発明品の中で、現在まで、原型のまま生き残っているのは。映画フィルムの標準だけである。

 エジソンは、失敗したとしても、それをうまく利用している。苦労や偶然をすべて美談にまで高めてしまう。エジソンが、それまでの発明家と違うのは、メディアを通じて、自分自身を等身大以上に見せることをやってのけた点である。“Genius is one percent inspiration and 99 percent perspiration”(Edison). 「人間というものは, 努力する限り迷うものだ(Er irrt der mensch, so lang er strebt.)(ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ『ファウスト』)。エジソンは発明家が発明家としてだけではなく、社会的事件となった時代に生きている。「わたしは科学者ではない。発明家だ。ファラデーは科学者だった。彼は金のために働きはしなかった。そんなことをする暇がないと彼は言った。しかし、わたしは金のために働く。自分のすることを何でも銀貨の大きさで測る。その銀貨がある大きさに達しなければ、そんなことはしても無益だとわたしは考える」。発明家は科学者と違う。発明家はすべてを商品開発という観点から見る。発明家は自分の存在がつねに社会的であり、資本主義経済の中にあることを認めている。発明家は、彼らの特許を担当していたアルベルト・アインシュタインの登場以降、地位が小さくなっていったが、エジソンは、いかがわしさから言っても、徹頭徹尾「発明家」である。エジソンには、そのため、資本主義社会と無縁でいるような態度の学者には我慢がならない。「わたしは数学者たちを雇うことができる。しかし、彼らはわたしを雇うことができない」。「数学者という連中には、うんざりするよ。たし算をやってくれとたのむと、紙切れをだして、AだのBだの、XだのYだのを何列も並べて、やたらに点や印をつけて、しかもその答えが全く見当ちがいときているのがおちなんだ」。

 二十世紀において、科学技術の発達を担ったのは、大学・軍・企業であり、中でも、家電は企業が圧倒的に支配的である。新材料と新技術の開発、すなわち応用科学の開発において、知的推理力と失敗や予想外の結果に対応する柔軟性が要求される。市場を睨みつつ、学問的裏付けと経験に基づいた思考力と判断力が前提になる応用科学は、プロフェッショナルの世界である。偶然性を歴史的転機と認識できるかどうかが問われる。“Why I have not failed, I've just found 10,000 ways that won’t work”(Edison).そのためにはチーム、すなわち「雲」(ジョシア・ウィラード・ギッブス)が確率的に高い結果を期待できる。あくまでそれは確率解釈にすぎず、共存度と干渉が決定する。科学的理論とは違い、電気に限定すれば、科学的技術の発展の歴史は波の性質を持っている。電子の運動には可逆性があるように、電気に関する限り、科学技術の開発には可逆性があり、必然性はない。

 森毅は、『異説数学者列伝』において、自然科学での天才の存在の皮肉さをヨハン・カール・フリードリヒ・ガウスを例に次のように述べている。

 

  ところが、彼を「天才」とするなら、彼の存在は「天才産業」にとっての皮肉な結論を与えている。ガウスはその知りえた結果を完成形式において発表するという習癖を持っていて、未完成をさらけだして物議をかもすようなことを嫌った(このことは、ガウス崇拝から追随者を生み、後世に悪影響をもたらした)。それで、その多くの業績は、篋底深く秘められ、あるいは友人だけに私信でほのめかされ、彼の生前には人に知られることがなかった。それで、アーベルやヤコビ、あるいはロバチェフスキやボヤイ、ときには老ルジャンドルが何かを「発見」したとき、ぶつぶつと異議を唱えたり、さりげなく無視したものだ。それで陰険に思われたりもしたが、事実たしかにガウスはすでに知っていたのである。つまり、この半世紀ほどの多くの数学者の業績をひとりでまかなえたことになる。

 しかし一方で、この半世紀間の重要な業績がガウスの篋底に見出されたとはいえ、他の数学者によって「発見」されなかったような著しい事実もまた、そこにはなかった。つまり、ガウスなしで数学が半世紀間に発達したぶんだけ、この「天才」は私有していたことになる。それで、人類にとって「天才」なしで間に合うということを、ガウスの「天才」が証明したことになる。

 

 同様に、エジソンが発明しなかったとしても、誰かがそれを発明する。特許をめぐる訴訟に明け暮れたエジソン自身がよく承知している。しかも、特許をとったからといって、成功するとは限らない。二〇〇〇年十二月二十一日に八十二歳で亡くなったアル・グロスは、第二次世界大戦前に、トランシーバーを発明し、一九四九年にポケベル、五十年代には携帯電話を発明している。しかし、彼は富を手にすることはできない。早すぎる。無線にも、ポケベルにも、携帯電話にも、メーカーは躊躇し、消費者は冷ややかである。一九七一年までに特許の大半が期限切れを迎えてしまう。商用化が適切な時期に行われていなければならない。「後三十五年遅れて生まれていたら、今頃はビル・ゲイツ顔負けの億万長者だったはずだよ」が口癖である。確かに、予想より遅いものは科学技術としては未来がない。実用化には予想という理念が基準となり、予想は最善の広告であるとしても、予想さえされていないものを開発したところで、市場には理解されない。製品開発には、イノベーションだけでなく、マーケッティングが不可欠である。イノベーションとマーケッティングの弁証法が製品品開発の過程に働いていなければならない。”Genius is hard work, stick-to-itiveness, and common sense” (Edison).トランシーバーと電話では通信方式が異なる。トランシーバーを含めた無線の通信方式は半二重通信であり、両方向の通信が可能であるが、一方向のみ通信可能な方式である。線路の性質としては同時にいずれの方向にも通信が可能であるけれども、端局装置の性質により、一方向しか通信できない。スイッチを切りかえることにより、一方が送信のみをおこない他方が受信のみを行う。電話の通信方式は全二重通信を採用している。これは、二地点間で、同時に両方向の通信が可能な通信方式である。アル・グロスの着眼点は非常によいが、この説明が示している通り、個人の移動中など特定の状況下で使う発明が多く、mobile lifeの一般化を待たなければならない。発明品は新たな生活スタイルを予感させるタイムリーなものである必要がある。そうした画期的な発明があると、なだれ現象が起こり、突然、それは終わる。このなだれの最初の原因としての一点を解明することは難しい。リチャード・ファインマンの「経路積分」は理論的には可能かもしれないが、現実的ではない。科学技術は実用化されて、初めて、意味を持つ。実用化を妨げるものは、コストや量産の方法、運搬などあまりに瑣末なことが多い。科学技術には政治的な側面もあるが,経済的側面がより強い。二十世紀の科学技術はたんなる科学理論と連関しているだけでなく、法律やライフ・スタイルなど広範な社会的な変化と相互作用している。基礎科学はあくまで上部構造にすぎず、応用科学が下部構造である。商品化された新たな応用科学の登場は人々の生活や認識を変化させ、メディアがその状況を増幅させる。科学技術は市場経済的な資本主義に基づいている。二十世紀における科学技術は開発者である以上に、経営者としての能力が要求される。エジソンはその典型であろう。

 

 The strangeness of the strangers

Second hand teenagers

Face to face they face

A chemical race.

 

Minds blind

Empty eyes

Blank tongues ablaze

No names

Breath in dreams

Stand in lines, cracked smile.

Life to life collides

Solid state survivor.

 

And Marilyn Monroe’s not home

So I sit alone with the video

And Tokyo Rose is on the phone

Dressed to kill in her skin tight clothes

Here’s to a humanoid boy

Smiling, happy and void

Solid state survivor.

(Yellow Magic Orchestra “Solid State Survivor”)

 

  応用科学の歴史は、IBMに対するAppleの挑戦が示している通り、ゲリラと正規軍の闘争の歴史である。ゲリラは遊撃戦を挑むだけでなく、支配的製品に対して革命戦争あるいは人民解放戦争を遂行する。支配的製品の隙間や辺境から、その対抗勢力が生まれる。支配が強固であればあるほど、独占状態が強ければ強いほど、時代の変化に対応できなくなるので、ゲリラが生まれやすい。その勝利を判断するのは市場である。市場はゲリラの登場を待っている。発明ではなく、アル・グロスの不運が告げているように、販売が革命をもたらす。ネット社会はゲリラの活動には非情に有利である。"They're like fish out of water or cats with wings"(Margaret Mitchell "Gone with the Wind").ネットは「ぼく自身のための広告」(ノーマン・メイラー)である。従来は、優れていても、一般ユーザーの間でベータ方式がVHS方式に敗北したように、資本力の前に伸び悩む製品は少なくない。「ティトゥス-リヴィウス がカルタゴ人を論じて申したように、 多数の勢いは常に最良なるものを凌ぐものである」(フランソワ・ラブレー『パンタグリュエル物語』)。だが、ネット社会では、匿名としての個人を強調する時、ゲリラ的活動として、Linuxの普及が証明している通り、企業との戦いでも十分勝算がある。「最小のものに最大の驚きがある(maxime miranda in minimus.)」。まつもとゆきひろが「Ruby(http://www.ruby-lang.org/ja/)」というオブジェクト指向のプログラム言語を開発している。まつもとによれば、「シンプルな文法、普通のオブジェクト指向機能(クラス、メソッドコールなど)、特殊なオブジェクト指向機能(Mixin、特異メソッドなど)、演算子オーバーロード、例外処理機能、イテレータとクロージャ、ガーベージコレクタ、ダイナミックローディング (アーキテクチャによる)、移植性が高く、多くのUNIX上で動くのみならず、DOSWindowsMacBeOSなどの上でも動く」。Rubyは、ネットを通じて、CHTMLの代替言語として、密かに広まっている。宣伝は、二十世紀において、最大の武器である。”Cambell Soup””Coca Cola””Mac””Windows”といった商標を獲得し、アンディ・ウォーホル的に流通させる。応用科学の革命は、市場がなだれ現象を起こすため、ほんの一点が崩れるだけで起こる。「パラダイム変換」ではない。これは「表象転換」である。「理論的方法にあっても、主体は、社会は、前提としていつでも表象に浮かんでいなければならない」(カール・マルクス『経済学批判序説』)。これは全歴史に共通する視点ではなく、電気の世紀である二十世紀に通用する見方である。この時代では、理論的・技術的限界にあるものをたった一つ作り出せばすむわけではなく、大量生産のラインに乗せて、大量販売しなければならない。それには、三つの「ム」、すなわち「ムラ・ムダ・ムリ」を斥ける必要がある。日本の町工場はそれをネットワークによって解消する。日本の町工場の技術力の高さと市場のシェアの占有力は競争ではなく、むしろ、彼らの持つネットワークによっている。「路地裏ネットワーク」あるいは「アメーバー型のネットワーク」と呼ぶ小関智弘は、『ものづくりの時代』において、「『あの仕事をやらせたら、あそこはうまいよ』という技術の信頼関係や、あくどいことをしないという人間的な信頼関係があってはじめて成り立つネットワークである。そういう目には見えず、名前もないようなネットワークが、町工場の町に張りめぐらされている。それが町工場の集積地として歴史を重ねた大田区の強さの要因のひとつだった。『大田区のビルの屋上から、設計図を紙飛行機に折って飛ばせば、三日のうちに製品になって戻ってくる』とたとえられたのは、そういうネットワークがあったからのことである」と言っている。先に述べた可逆性が電気というミクロな視点に着目した時に表われてくると同時に、開発製品が歴史的出来事として見れば不可逆性を持っているように、マクロな歴史との整合性の問題もあるだろう。それ自体は多世界解釈を用いれば容易に説明できるけれども、むしろ、二十世紀の科学技術の歴史は商業主義によって発展してきたのであり、商業主義というメゾな視点から科学を捉えるべきである。二十世紀における基礎数学から応用数学への数学史の変遷はヨハン・フォン・ノイマンが体現している。メディアを制覇した製品が市場でも勝利している。パウル・カール・ファイヤアーベントは、『方法への挑戦』において、認識論的アナーキズムを説き、さらに『自由な社会における科学』や『理性よ、さらば』、『知識についての三つの対話』などでイデオロギー的性格を持つ科学の国家からの分離を主張したが、科学技術史はアナーキーな商業主義を背景にしている。アナーキーな商業主義に対するGalgenhumorによってのみ、新たな科学技術と科学倫理が生まれる。科学技術自身には倫理を決定できず、実用化=商品化上の倫理は、メディアを通じて、他者の認定を受け、市場によって最終的に決められる。

 言うまでもなく、パソコンを筆頭に、考案された最新の生産物の意義がまったく理解されず、しばしば、市場どころか社内でさえ、葬り去ろうとする動きも生まれる。ところが、そうした生産物が、逆に、新たな発想=市場を生み出す。「研究の目を、物である個々の構成要素やその中身ではなく、構成要素全体を1つのシステムとして考えて、その組み合わせ方、用い方に向けた」(斎藤芳正『はじめてのOR)

 アルフレッド・ノーベルは、エジソンとは逆に、商業主義的な状態を嫌っている。エジソンが二十世紀の発明家であるとすれば、ノーベルは十九世紀の発明家である。十九世紀は、近代オリンピックが登場してくるように、アマチュアリズムであり、蒸気の世紀であろう。ジェームズ・ワットは、マシュー・ボールトンの協力で、一七七六年に単動蒸気機関、一七八四年にピストンの往復運動を回転運動に変える復動蒸気機関を発明している。一八〇七年にフルトンが最初の蒸気汽船、一八一四年にはスティーヴンソンが蒸気機関車を製造する。一八一九年にワットが亡くなる時には、イギリスだけでも、すでに、五千台以上の蒸気機関が動いている。次の世紀に支配的になる電気は大学の研究者が中心である。マイケル・ファラデーも最初はアマチュアだったが、大学と関係が深い。一方、熱力学の研究者はアマチュアがほとんどである。熱の実体説を否定したルシフォード伯ことベンジャミン・トンプソンは事業家だったし、ロベルト・マイヤーは船医、ジェームズ・プレスコット・ジュールに至っては、醸造業者で、エネルギー保存の法則を唱えたヘルマン・フォン・ヘルムホルツは軍医である。ワットは機械修理工、ジェームズ・フルトンは画家兼時計修理業者、ジョージ・スティーヴンソンは職業的発明家である。

 ただ、熱力学には古典的力学と電磁気学、さらに量子力学をつなぐ要素がある。古典力学を代表する時計の時間を標準化=統一化したのは蒸気機関車であるけれども、コンピューターはこの時計に基づいている。熱力学はニュートン物理学最後の功績であるが、通常の古典力学とは少々異なるから、専門家以外が実績をあげられる。「発明家」はこの過渡期に活躍する。エジソンは、その意味で、最後の発明家である。ルシフォード伯は、自分の会社でつくった大砲の穿孔作業をすると砲身が熱くなることから、自説を導き出している、ジュールは、酒をつくる時に、水を攪拌機でかきまわすと水の温度があがる点に着目し、法則を考案する。また、マイヤーは、ジャワに向かう船の船員たちにおける静脈の血液の色が動脈のものと同じくらいに赤いことに気がついている。動脈の血液の赤い色は、混じっている酸素の酸化作用が原因であることは知られており、彼は熱がこの酸化作用に影響を及ぼすのではないかと考える。一八五〇年に書かれたマイヤーの『熱の仕事当量に関する論文』によると、熱は「実体」ではなく、「作用」であって、「熱量は圧力にさからって体積を増加させる能力」である。熱はエネルギーであり、エネルギーの変化には、絶対温度の概念を熱力学に導入したケルヴィン卿ことウィリアム・タムソンやルドルフ・クラウジゥスが示したように、ある一定の方向性、可逆性=不可逆性がある。この概念は電磁気学や量子力学にも適用されていく。

 二十世紀の発明家であるエジソンはビジネスのスタイルだけでなく、二十世紀の生活環境とその基盤も変える。われわれはエジソンの発明に起源を持つ家電製品に囲まれ、しかも、それを支える電力までエジソンは考案している。エジソンの発明品が世界を構成している。これは、歴史上、初めてであろう。デヴィッド・ロックフェラーがガソリン・エンジンを発明することはい。エジソンはドイツのヨハン・ヴィィルヘルム・リッターが考案した蓄電池を改良してエジソン電池を発明し、一八八一年、パリで開催された第一回国際電気器具展示会で、蒸気タービンを利用した発電機を出品、翌年には、ニューヨークで世界最初の公営発電所において発電を実用化している。エジソンは、一八七八年に、エジソン・ゼネラル・エレクトリック・ライト・カンパニーを創業する。八九年、スプレーグ・エレクトリック・レールウェー・アンド・モーター・カンパニーを買収し、エジソン・ゼネラル・エレクトリック・カンパニーとなり、九二年、トーマス=ヒューストン・エレクトリックと合併して、GEとなる。エジソンは九四年まで取締役会に参加している。一九〇〇年、MITの化学者ホイットニーを迎えて、研究所を設立し、基礎科学、化学・電気・治金技術に関する画期的な成果をあげ、一躍、GEの名前を高める。さらに、一九二二─三九年に社長に在任した同じくMIT卒のジェラルド・スウォープは、一九二〇年代の好景気の際、女性が外に出る機会が多くなったことを見て、家事の合理化を促す電化製品の製造・販売に力を注ぎ、後世の基盤を築いている。大衆の世紀とも呼ばれる二十世紀は、その意味で、一九二〇年代に始まると考えられ、大衆とは「女性」である。なるほど、電化製品は林ひな子によく似合ったわけだ。第二次世界大戦後には、GEは電球から原子炉まで製造する最大の電気総合メーカーとなる。GEの沸騰水型軽水炉は日本でも広く使われているタイプで、「直接サイクル」とも呼ばれている。これは冷却システムが一系統であることから、構造がシンプルにできるが、放射能の影響が広範囲の機器に及ぶため、タービンの整備・点検の際に作業員の放射線被曝に気をつけなければならないという特徴がある。電力を供給するのも、需用するのもエジソンの発明品である。電気のロビンソン・クルーソー的作業はエジソンで終わっている。一九八一年に、GECEOに就任したJ・ウェルチは、アジア企業の追い上げに対抗して生き残るために、大幅な人員削減と事業規模の縮小に着手し、各分野で世界におけるシェアの一位ないし二位という企業に転換させる。今日のネットワークはエジソンの発明の結び目そのものの比喩であり、エジソンは情報化社会を先行した人物である。二十世紀は「発明を超えて(文学であれ絵画であれ科学であれ)研究プロセスに移行した時代。このプロセスは生産から隔絶している」(マーシャル・マクルーハン)

 そのエジソンにしても資本主義に飲みこまれていたことは確かである。しかし、すべてを美談に書き換えさせてみたエジソンを考慮するならば、それを決して否定的に考えるべきではない。発明した商品を売り出す際には、必ず「エジソン」をつける。競争相手がいない間は、市場を独占するものの、すぐに後発メーカーに追いつかれ、商品は売れなくなる。後発メーカーは経営者や開発者ではなく、有名な歌手や俳優を広告に使う。今では宣伝ではなく、ライフ・スタイルの提案という広告の時代に突入している。人々はすでに数多くの家電に囲まれている。この製品を購入することにより、消費者の生活がどのように変わるかを提案するのが広告の主流になる。エジソンが売りたかったのは発明品以上に自分自身だったのであり、ウォーホルの認識を先取りしている。ところが、最近、経営者自身が広告に登場することも多い。フォード・モーターは、ウィリアム・フォードCEO自ら出演するTVコマーシャルを発表している。「家族」・「遺産」・「発見」・「強さ」をテーマにした四種類のCMにおいて、創業者のヘンリー・フォードやレトロな自動車の映像が重ねられ、フォード会長が「私の二人の曽祖父ヘンリー・フォードとハーベイ・ファイアストンは、毎年、トーマス・エジソンとキャンプに出かけたものでした」と語っている。

 他方、エジソンのもたらした生活様式は、火力発電所を代表に、環境問題を引き起こしている。けれども、人々はエジソンの世界を手放す気はない。エジソンの行った発明家的方法により、ゲリラ的作戦により、その解決を図っている。エジソンに由来する問題は、結局、エジソンに解かせるほかない。バイオエレクトロニクスにおいて、DNAが自分のコピーを作り出す性質を利用したDNAコンピューターが開発されつつある。これは、原理的には、スーパーコンピューターの百万倍の計算速度があり、全生物の遺伝情報の解析に期待されている。DNAの情報はDNA自身に解かせるに限るというわけだ。エジソンが生きていたら、意気揚揚とすべてのメディアを使い、私の発明によって、環境問題に対する解決法が確立されつつあると訴えることだろう。エジソンは、いつもの通り、陽気かつエネルギッシュな態度で、大好きな記者会見に臨む姿が目に浮かんできそうだ。そこでのエジソンの言葉は、「電気は決して怪物などではないし、わたしもフランケンシュタイン博士ではない」という信念をこめつつも、どこまでもいかがわしく、妙な希望にあふれているに違いない。けれども、それこそが二十世紀だ。エジソンはあまりに二十世紀を体現している。

 そういうエジソンをめぐって、寺山修司の『エジソン』によると、『戦艦ビナフォア』の次のような替え歌が吹きこまれている。

 

おれは電灯の魔法使い

それに頭もさえている

 

 エジソン自身が本当にそう思っていたかはわからない。ただ、三十歳だった一九七七年、蓄音機に人類最初の音声を録音する際、ある童謡を選んでいる。その歌詞は十九世紀初頭にサラ・ジョセファ・へイルが書いたものだ。当時、アメリカでは、女性が学校へ行く必要などないというのが通説である。しかし、サラはそれを打破するために、その歌詞を書いている。

 エジソンは、最後に大笑いしながら、その童謡を次のように歌っている。

 

Hello. hello, hello.

 

Mary had a little lamb

Its fleece was white as snow

And everywhere that Mary went

That lamb was sure to go.

 

Ha, ha, ha, ha, ha.

 

  エジソンは生涯二度結婚している。最初の妻とは二十四歳の時に結婚し、三人の子供をもうけ、十三年連れ添った後に死別する。彼女の名前はMaryという。

〈了〉

参考文献

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後藤尚久、『図説・電流とはなにか』、講談社ブルーバックス、1989

斉藤芳正、『はじめてのOR』、講談社ブルーバックス、2002

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堤井信力、『静電気のABC』、講談社ブルーバックス、講談社、1998

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橋本尚、『電気に強くなる』、講談社ブルーバックス、1979

橋本尚、『電気の手帖 電気がまから超LSIまで 改訂新版』、講談社ブルーバックス、1985

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メアリー・シェリー、『フランケンシュタイン』、山本政喜訳、角川文庫、1994

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スティーヴン・バン、『怪物の黙示録―『フランケンシュタイン』を読む』、遠藤徹訳、青弓社、1997

PK・ファイヤアーベント、『方法への挑戦』、村上陽一郎他訳、新曜社、1981

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PK・ファイヤアーベント、『知とは何か 三つの対話』、村上陽一郎訳、新曜社、1993

ゲルハルト・プラウゼ、『天才の通信簿』、丸山匠他訳、講談社文庫、1984

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小学館ウィークリーブック、『週刊美術館43』小学館、2000

 

 

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